柳原です。
いつもお読み頂きありがとうございます。
弊社の倉庫もある埼玉県行田市のお話、「のぼうの城」http://nobou-movie.jp/ が公開されます。
詳細はお調べしていただくとして。。。
おおむね歴史書の多くは創作や改ざんも多く、そのまま真に受けては間違った見方となてっしまいますが、それは歴史研究でのお話し。
普通に見る分にはそのままを受け止めてもかまわないでしょう。
このお話しから得られるのは(映画でどのように構成されているか分かりませんが)、往々にして信長の半生を脚色してもじった同様の内容。
信長同様、おおうつけならぬ木偶の坊と呼ばれた主君が、いざとなったら多勢に無勢で、なおかつ奇策で勝利したという内容。
今現在でもこのお話から得られる教訓としては、その真偽は別として、普段は足げなく領地を廻り、庶民と同化するほど普段は一体となり、まるで武将であるべき姿から逸脱した姿に家臣は嘆きます。
しかしその実、それは農民や商人との付き合いの中から得られる生の情報収集と人脈作り、人心掌握の下地作りを行い、広く視野を広げ空気に触れることで、武家視点に限らない気づきと力とアイデア力、速効力、実行力を養った事。
もちろん、それらは更に裏の部分で分析、長中短期の戦略計算に活かされていたのは言うまでもありません。
勘違いしてならないのは、城主は戦争に勝つ事だけが目的ではなく、石高と経済の向上と防衛と戦時武勲を鑑みた広範囲な戦略を主業務としているのです。
さて、しかしいざ、豊臣方の攻めが始まった途端、実戦経験を積んできた補佐役に聞き耳を素直にたて、いままでのぼうっとしてた時に得たあらゆる視点の複数の情報から長中短の戦略決断をし、ハッキリと明確に下命して戦術を練って速効実行を行った事。
結果は多勢に無勢でも少なくともその場の戦いには勝てるという事を証明した事。
その戦術に武勲に凝り固まった武将達には思いつかない奇抜戦術がからんできて面白い事になるのです。
もちろん、実際には戦いなので周りの経済情勢、国々の思惑、地理的要因がからんではいますが。
信長においては、桶狭間の戦い後の論功行賞において今川の首を取って武勲をあげた毛利よりも、簗田政綱を先に褒め称え城主に抜擢したのは有名な話です。
もちろんこの話の裏付け自体に説得力のあるものは少ないのですが、話しそのものからは、いかに表の光って見える部分(武将達の戦いや立ち振る舞いなど)が凄くとも、影の地味な暗い部分である情報収集や数年にも及ぶ下地作りを信長が重要視していたかが伺い知れます。
いわゆる草と呼ばれる部分ですね。
「のぼうの城」においても同じ事が言えます。
映画にもこのような影の部分は出てくる事はないでしょうが、必ず背景に於いてはそういう経緯がある事をしって視聴するとまた面白いかもしれませんね。
なにはともあれ地元を題材にした映画。
機会があったら見てみたいものです。
余談ですが、近年の戦争、いや現在の経済活動に於いても、まだまだ日本ではこの影の部分を軽視しがち。
太平洋戦争での表向きの敗因もアメリカの圧倒的な物量や大型戦略爆撃機による大都市空襲、原子爆弾など映像にしたらスゴイところが話題になりますが、その実、商用船を効率的に活用できず長期戦略としての資源調達に失敗した事、物流を無視した攻略、人権を軽んじた占領政策などはなかなか注力されていません。
米国の勝利は、少なくとも圧倒的な情報収集力と分析力、ロジスティクスを見据えた攻略戦略が下地となって、物量を効率的に稼働できたと思うのです。
また、中期以降の零戦との戦法をみても分かる通り、「逃げるが勝ち」「多勢で攻める」事を良とする風土、機体や武器そのものよりも、操縦したり取り扱う人間教育のほうがコスト大であるという認識の下、生きて帰ることを奨励した事も大いにあるでしょう。
元冠の襲来時に外国人の戦法を学んでいたにも関わらず、朝鮮出兵で攻撃側としての実戦を経験したにも係らず、明治以降の海外視察にも関わらず、なかなか取り入れ切り替える事は難しかったようですね。